南アルプス
冬の主脈縦走・北岳〜塩見岳 |
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この時代の写真記録が少ない。実家が大雨被害で、私の大切なネガアルバムが台無しになったことも原因している。 |
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1965.5月 東芝山学会・小向支部で1966年正月合宿南アルプス縦走計画が承認され、残雪期5月の偵察山行が行われた。彦坂リーダー、梶山サブで隊員7名程度と記憶している。 ルートは広河原→北岳→間ノ岳→熊の平→塩見岳→鹿塩。 残雪の状況を見て、食料、燃料のデポ地点を検討すること。雪庇の状況等々・・・冬の南アルプス縦走経験者がいないので、綿密に計画準備が立てられた。のどかな春山縦走は順調に推移したが、塩見岳を目指す早朝の天気図作成時にいやな予感。黄海の低気圧が二つ玉になる気配。昼食時に再度天気図作成。台湾坊主が出現。二つ玉低気圧が日本を挟むように東進している。速すぎる。午後2時頃には雪となり猛吹雪。塩見の登頂をあきらめて迂回し、南下。突然の積雪と横殴りの吹雪でルートが見えず3時過ぎに林間に逃れて沈。この夜が大変でした。テントは冬用でしたが、雪上でエアマット無しのシュラフなので、下の春の雪が解けてきて水浸し。全員眠れるはずがないのに無言。早朝3時起床。一斉に全員がムクッと起きる。1mほどの積雪。塩見の登頂をあきらめ、下山した。このゴールデンウイークは、日本の登山史上、極めて悲惨な遭難事故が相次いだ。 |
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1965.8月 同コーストレーニング 1965.11月 計画コースで荷揚げ 1966.正月 夜叉神峠→野呂川→池山吊尾根→北岳→中白根→間ノ岳→西農鳥岳→農鳥岳→大門沢小屋→奈良田 資料がないので記憶に任せて書き下ろす。マイクロを降りてザックをかつぐ。リーダー以外の一人当たりのザック重量50kg。新雪でトレースがなく、初めからカンジキでラッセル。ドカ雪が腰までつかる。全身で雪を押し、腕で押し下げ、膝蹴りを入れ、やっと足を一歩出す。20mも行かずにトップ交代。順繰りに後に回り息を整える。遅々として進まない。林間の新雪は手強い。12月恒例の谷川天神平のラッセル訓練を経験しても今回は閉口。結局、八本歯まで二日を要し、北岳の処女雪を踏みしめたのは三日目だった。稜線の風は強く、気温も上がらない。目出帽からのぞく睫毛が凍っている。目出帽も口、鼻の周りもゴワゴワに凍てついている。寒暖計の柱が立ってこない。すでに手の指に軽度の凍傷。顔は豹のような斑点。中白根稜線で雪洞を掘り、四日目以降の計画を立て直した。縦走は無理との判断で、農鳥から奈良田へ下山することになった。翌日は西農鳥でテントを張り、その翌朝、一気に下山して奈良田の温泉に浸かった。 登山前日の低気圧通過によるドカ雪と、その後の冬型気圧配置で強風と気温が下がり、縦走計画は失敗に終わった。結局未だに冬の塩見岳山頂を知らない。 |
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その他の南アルプスの主な山行記録 1967.1月 北沢峠合宿(ベースキャンプ) 仙丈岳・甲斐駒ヶ岳・アサヨ峰登頂 正月を雪の中で迎えるときは、食料の荷揚げが大変だ。この時は食料係で、金欠病の私の食料計画書はあっさりリーダー会で却下された。酒は三升追加、雑煮材料の倍増、天ぷらパーティまで追加させられた。一体誰が持ち上げるのか。戸台から北沢峠のきつい登路が頭に浮かんだ。 縦走と異なり、ベースに腰を下ろして過ごす雪山は格別に楽しい。毎朝3時起床、4時出発で頂をアタックして帰ってくるのが昼頃になる。それからの昼食がおいしく、夕食までに相撲をとったり、近場を歩いたり歓談したりして時間を潰し、夜は7時過ぎに就寝となる。合宿で山仲間との絆が深まることを実感できた。 |
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