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道草ばかりの人生 長山 伸作 |
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◆ 生 誕 期
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昔々のお話・・・。
ここに当家の貴重な写真がある。昭和7、8年頃のものと思われる。
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わが兄姉が5人とオヤジ、オフクロ、それにお手伝いさんの総勢8人が、木箱の写真機に向かって神妙な顔、顔、顔・・・。「さあ皆さん、おとなしくして動かないように」。街の写真屋は右手を上げて「ボン!」。マグネシウムの閃光と煙で、やっと緊張感から解放される。当時の家族の身なりから想像すると、オヤジの商売が右上がりに繁盛した頃であろう。まだ私が誕生する十年以上も前のことである。
ちなみに私は五男、10人目の戦時中に生まれた粗製乱造型「日の丸族」である。家族は12人構成で丁度1ダースだったが、戦後に打ち止めの弟ができた。兄弟の多さは町内の勢力図に影響したが、毎年、学校に提出する家族調査表は一枚では書き切れず、「もう一枚下さい」と言って、首を傾げる先生への説明に、いつも苦労した。オヤジは神戸出身の関西商人。ウソか誠か知らないが、先祖は一ノ谷ヒヨドリ越えで名を馳せた畠山重忠とのこと。オフクロは浜松徳川に仕えた武家の流れ。この両親が名古屋で所帯を持った経緯は知らない。
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オヤジの没後、わずか四年で倒産
右の写真を上のものと比較すると好対照である。身なりといい、すねた態度といい、写真は正直に時代背景を物語ってくれる。悩み多き反抗の時代に当家は破産した。オヤジの没後4年目のことである。名古屋のデパート丸栄が定番で扱ってくれていた、地場では認知度があった「ペンギンマーク」の学習ノートが消えた。私は多感な中学一年生。絵の具が買えなくて好きな絵画を捨てたのもこの時期だった。
人生の転換期が思春期と重なり、反抗期の相乗効果で、人間形成は「道くさ」を歩むようになる。
最も小さい頃の記憶
工場の横に古い石造りの一対の門柱が立っていた。 |
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私はまだ3〜4才の頃で傍観者だったが、近所の子供たちが門柱に荒縄を結んでぶら下がり、サーカスの真似事に興じていた。三つ年上の姉が綱渡りをしているときに、突然門柱が倒れかかり、転げた姉を直撃した。何がどうなったか、その当時は判断できなかったが、親父が工場から飛び出してきて、ぐったりした姉をリヤカーに載せ、平田町方面へまっしぐら。この強烈な印象が、最も小さい頃の記憶である。姉を直撃した門柱の傷跡は今でも左腕に残っている。
天に召します我らの神よ
当家は真宗、東本願寺であるのに、私は橦木町にあるキリスト教の聖母幼稚園に3年も通った。入園して間がない頃に、一緒に通っている兄が私の手を取って家を出、幼稚園とは違う方角へスタスタ歩いていく。手を引かれるままに、いつもの遊び場所、禅龍寺の境内裏にたどり着いた。人生最初のオサボリである。兄とふたりっきりで遊んでいても時間を持て余し、結局早めの帰宅でバレバレ。絞られたのは当然ながら兄貴である。親父のお仕置きはきつかった。胸に十字を切ってアーメン。
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豪快でスリル満点のトロッコ遊び
戦後の焼け野原は、今では想像もつかないが、当時の東区はマカロニウエスタンばりの原野にトロッコがあった。何のために使われていたかは問題ではない。私たちの格好の遊び場所だった。危険だという親の忠告などまるで無視。暴走トロッコは怪我人も作ったが、遊び道具の少ない当時は、見つかって追われるまで、乗り回していた。子供のしつこさには大人は閉口したものだろう。
夏は夕涼み、冬はドンドコ
軒先に縁台が置かれ、将棋に熱中するふたりと岡目八目で口を出す取り巻き連中。手の震えを気にしながら線香花火の火玉が落ちないように必死に息を止める子供たち。うちわ片手に井戸端会議を延長させる女たち。それぞれの夕涼みが通りのあちこちで店開きしている夏の風物詩は、今では想像もつかないが、風鈴の音のように、時の流れがゆったりしていて、人との付き合いがほほえましい、懐かしい時代として思い起こされる。冬に人が集まる場所はドンドコ。焚き火のことだが、当家は紙の運搬用の木切れが多くでるので、しょっちゅうドンドコの常設社交場だった。焚き火の勢いがなくなると、サツマイモを灰の中に投げ込んで時間を待つ。ただ待つことは退屈なので、カクレンボ、缶蹴り、釘さし、カチン玉、ショウヤなどなど、当時は金のかからない集団遊技が多かった。小学一年生の冬、缶蹴りを遊んでいたときに、我が家の畑でつまづいて、缶が置かれた道路にダイビング、左腕を骨折した。
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シンコと呼ばれて
誰が名付けたか定かではないが、私の名前は伸作なのに、家族のあいだではシンコと呼ばれた。絵を描くのが好きな、おとなしい、はにかみ屋だったので、こんな女読みのアダ名になったようである。兄弟姉妹みんなから言われていると、大きくなっても何の疑問も反感も湧かないから不思議である。つい最近まで、弟からもシンコ呼ばわりされていた。
おとなしい割に、切れると怖かった自分
「シンちゃん、ア、ソ、ボッ」。元来おとなしい私は、近所の女の子に誘われることが多かった。中でも、お寺のユキちゃんが好きだった。そんな私だったが・・・
自転車屋のおばさんが血相変えて怒鳴り込んできた。おふくろがしきりに頭を下げて詫びていた。私は隠れて耳を澄ませていた。夕食時にそれを聞いた長男が言った。「シンコ、よくやった。あいつは生意気だし意地が悪い」。自転車屋の息子は同年だが怖い存在だった。いじめが趣味のようなヤツで、素手では負けると思い飛び道具を使って対戦した。卑怯ではあるが瓦の破片を投げつけた。見事に旗本退屈男になって、額から血を出して逃げていったのである。
隣町、鍋屋町に住む印刷屋の息子も手強かった。取っ組み合いで負けそうになったので、爪を立てて顔を攻撃した。ひるんだ隙に逃げ帰ったが、後からやっぱり親がやってきた。息子の顔がミミズ腫れだそうだ。翌日学校で見た彼は、確かに哀れな顔をしていた。なぜかそれからは仲良しになり、家へ遊びに行くこともあった。
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