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道草ばかりの人生 長山 伸作 |
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◆ 男と女 出会いと別れと 1970年
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21世紀の青春行動は、僕の若い頃と比較して2世代の変化を通し、様変わりも著しい。1960年代の若者は結婚も早かった。女は22才、男は25才で適期を向かえたように思う。当時仲が良かった友だちは、二人ともこの年までに結婚していた。まだまだ大多数の最終学歴が18才だったので社会における男と女の出会いのチャンスも多かった。モノのない、豊かさにはほど遠い時代だったので、イベント事には多くの若者が集って来た。ハワイアンバンドとダンスの夕べを企画して、チケット100枚が簡単に売りさばけた。厚生課の主催でキャンプを支援すれば、2〜3百人の参加者が集まって来た。スキーツアーでも、バスの2、3台は確実に想定内の企画が組めた。余暇の楽しみ方が少なく、限定された時代だったので、値打ちにイベントを企画すれば、若者が集まった。男と女の出会いとお付き合いも、そんな環境から生まれることが多かった。
今の時代は個性化が進み、生活スタイルも多様化したため、集う機会と集客数が催行人員不足になることが多いようだ。合コンなどと言う不思議な現象が如実に物語っている。個人の主義主張がまかり通る時代なので、相手を理解する、思いやりの心は面倒なようで、窮屈な結婚より気楽な独身生活を選択し、30才を過ぎても、子孫を育てるよりパラサイトシングルを謳歌している。地球規模で考えれば産制の必要な国もあるが、日本人には子孫をつくり育てる責任があると思う。出生率の低下は、国防、国益上、極めて憂える事態である。
30を過ぎても女性と縁のない男に言いたい。
「青年よ、女性を抱け!」。
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そもそも僕の青春時代は、異性関係が淡泊だった。やりたい事が目白押しで、異性を意識する気長な付き合い時間がもったいなく、苦手だった。今にして思えば、単に我が侭だった。ハタチを過ぎた頃から、結婚は30才と決めていた。だから男と女の関係に、結婚は想定外であり、できれば異性に友だち関係を保ちたかった。東京時代に三人の女性と知り合えたが、いずれも約束できない我が侭な僕の前から去っていった。
「男と女の関係に、友情などありえない」。
こんなことをいう友がいた。そんなヤツに限ってセックスの話は冗舌だった。「友情」なんて言葉は、軽々しく使う言葉ではない。「愛情」も然りであり、そもそも「情」などという言葉は人間臭く、脆いモノである。長い時間が経過して、振り返って初めて「情」の深さを知るものだと思う。そんな意味からすれば、僕にとっては日本女性よりはるかにヨーロッパ女性に「情」の深さを感じている。
戦後の日本において、強くなったものは「ストッキングと女性」と言われた。欧米並みに強くなったと。これは根本的に間違っていた。欧米女性は自活している強さがあり、同権における異性への理解、思いやりがある。日本女性の思い違いは、「女性は弱者」の考え方の上で権利を主張している。「重い荷物は男の役目」と決めつけて、男に命令する。スキー場で、男にスキー板を持たせるオーストリア娘はいない。女の弱みを表に出したら、同権を放棄することになる。男女平等の基本的な態度である。そんないじらしさに、男は手を貸すのであり、そのことに素直に感謝の心で応えてくれる。
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エリカの突然お見舞い
エリカからカナリア諸島の絵はがきが届いた。休暇の帰りにシュルンスへ寄るとのこと。骨折事故を知ってお見舞いに来るという。僕は松葉杖で、やることもなく店でぶらぶらしていた。エリカの訪問を受けたボスの奥さんは、興味津々で彼女の来訪を告げに来た。相変わらず陽気なお姉さんはノーテンキで、僕に抱きついてキスの雨を降らせ、哀れな姿に大袈裟なゼスチャーで悲しんでくれた。
彼女は一晩泊まるというので、教会広場に隣接するホテルタウベへ向かった。僕の腕を抱きかかえて支えてくれるのは有り難いが、ここは小さな街と言うより村である。それでなくても目立つ日本人SHINが、女性と腕を組んで歩いている。噂にならないのが不思議で、シーズンを過ぎた人の行き交いもまばらな街中の二人は目立った。ホテルタウベの主はネルス、奥さんはグンディと言い、日本人観光客が滞在したときに通訳を手伝った間柄なので、無理は聞いてくれる。ディナーはタウベのレストランで、ハンガリー料理のグーラッシュスープを食べながらワインをしたたか飲んだ。この頃は落ち込んでいたので、久しぶりに楽しい時間が過ごせた。しかし僕の帰国の決意を知って、彼女の態度が変わった。そんな間柄ではないが、彼女にとって僕の存在は大きかったようだ。翌朝ホテルへ迎えに行くと、グンディがきょとんとした目で「知らなかった?」。朝食もとらずチェックアウトしたという。まだまだ僕は若かった。またしても、一人の女性を傷つけたようである。
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村長さんのマレント家でも大騒ぎになっていた。日本人贔屓というよりは、SHINのファンであるカタリーナのご機嫌を損ねたようだ。シュルンスを離れるときにホーフベークを訪ねたが、姉のマリアから、「会いたくない」と聞かされた。家族は誤解を理解してくれたが、まだまだ若いカタリーナには、エリカの出現がショックだったようだ。
ホモが多いヨーロッパ
ザルツブルクで最初に知り合った日本人ダンサーはホモだった。最初に借りたアパートは豪華で、ある時、彼の訪問を受けた。彼は映画監督と称する同年代の男を伴ってきた。居間に通したら、突然ソファでイチャツキ初めて、「SHINも仲間に入る?」。「寝室を貸すから、二人でどうぞ」。あとで、この二人から「友情」について聞かされた。男と女の間には、友情が長続きしない。愛に溺れると壊れてしまう。だから愛情も友情も共有できる男同士の関係がいいと。僕は反論した。「使い分けるから大丈夫。所詮凸と凸の合体は不自然ですよ」。
フランクフルトへ旅をしたときに、インフォメーションでホテルを捜していたら、隣から声が掛かり、「ツインを一緒に借りれば半分の予算」という。その場でOKしてホテルへ。寝る前に彼が言った。「僕はホモ」。頭に来たので洗濯ロープをベッド間に張り、「ここを越えたらブン殴る!」。以外と従順だったが、寝不足だった。
音沙汰なし
メリッタからの便りがない。最後の夏をザルツブルクで過ごすために、シュルンスを後にした。タールハマーに勤める彼女の女友だちに聞いたら、入院しているとのこと。何の病気か判らないと言う。口止めされているらしい。
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想い出は走馬燈のように
ジュリー・アンドリュースが歩いたような古い街並みと石畳の道を、メリッタの女友達と一緒に歩いている。無理を言って強引に頼み込んだ。細い道をたどり、修道院の薄暗い門をくぐって、男子禁制のような雰囲気に包まれた廊下を通り、階段を上がり、ひとつの部屋の前に立つ。彼女が開けたドアの中は、窓から射し込む陽光がまぶしい。その日溜まりの影で、枕に埋めていたブロンズの髪がゆれて、白いうりざね顔がこちらを向く。焦点が合わないメリッタの視線はけだるそうに、僕を貫いて遙かな宙をさまよっているようだ。しばらくして、やっと彼女の口から「SHIN?」という言葉が漏れた。何が起きたのかさっぱり分からないまでも、普通の状態でないことだけは理解できる。「どうしたの?」といって床に膝をつき、うずくまりながら手を握って覗き込む。何も話したくないように、口元で笑顔を作る。話したいことはいっぱいあるのに、無言の時は流れる。無性に悲しさが込み上げてくる。窓外の赤茶けた屋根が潤む。ドアが開いてシスターが入ってきた。「診察があるのでお帰り下さい」。そんなに時間は経っていないのに。メリッタがいう。「もう、来ないで」。きつい、強い意志の目元に変わっている。言葉が見つからない僕は、彼女の冷たい手をぎゅっとかたく握ってみたが、反応がない。
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友だちに急かされて立ち上がり、笑顔で手を振るのが精一杯だった。帰り道、再度友だちに「何が起きたのか」聞いてみたが、何も知らないの一点張りだった。
虚しい月日が流れた。夏のザルツブルクは音楽祭でにぎわっていた。夜のゲトライデガッセは、夜会服に身を包み、石畳に衣擦れのあでやかな紳士淑女が優雅に歩いていた。当時は新進気鋭の指揮者、小澤征爾が入江美樹と歩いていた。中国料理店の目が回るような忙しさにも、時は淡々と流れていった。
旧市街の中心、ドーム広場とレジデンツ広場が見下ろせる二階のカフェテラスは、いつも観光客でごった返すほど賑わっている。好んで訪ねる場所ではないが、今日は独りでテーブルを占拠し、時間を潰している。おのぼりさんで初めて住んだこの街のクリスマスイブを、ここで過ごした想い出がある。ステキな雪降る夜空に教会の鐘が一斉に鳴り響いた。凍える寒さも気にせず、シンフォニーの光景に酔いしれた。あれから瞬く間に三年が過ぎた。ドイツ語を一緒に学んだルイゼ。タールハマーの愉快な仲間、フリビー。ザルツブルガーの心得を教えてくれたエリカ。中国料理店の娘、ベティ。回りを見渡せばバロックの尖塔越しに、好んで歩いた丘、メンヒスベルク、カプツィーナベルク、ザルツブルク城が夏の青空に浮かんでいる。
人生のドラマは男と女、芽生えと別れ。
分かっていても割り切れず、主のいない空き家に電話をかけている僕がいる。もしかして、の期待とは裏腹に虚しく響くベルの音。もう一度、一緒にたどりたかった丘の枯葉の小径。ザルツブルクは感傷の秋になっていた。その落ち込んだ心を引きずったまま、ザルツブルクを独り旅立って帰国の途に。想い出は走馬燈のように、列車の窓外を流れていた。
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ボスの友だち、僕の知人でもある若い建築家が雪崩れに巻き込まれて死んだ。
葬儀に参列したが、夜中の帰り道に墓地の前を通りかかり、
雪の中の、安置所の明かりに引かれて中へ入った。
誰もいない静まり返った空間で、キャンドルライトに浮かび上がる棺。
一瞬の雪崩れに即死だったようだ。
圧死だったとのことで、やすらかな顔だった。
生前の彼の笑顔が浮かんだ。
知人のチロル娘が寂しい顔をしていた。
彼が交通事故で生死をさまよっているという。
アルプの草原に横たわって目を閉じる女にカメラを向けた。
帰国後の便りに、フリビーは「いつか日本へ行くぞ!」の返事があったが、その後音信不通に。
期待したメリッタは返事もなく、ザルツブルクの縁がなくなった。
シュルンスのカタリーナは、その後イギリスに渡り、恋愛談を綴ってきた。
その後スイスに移り住み、お医者さんと結婚。
クリスマスカードにいつも子供の写真を送ってくる。
ボスが柔道仲間と日本へ来た。
僕も家族を伴って、三回シュルンスで休暇を楽しんだ。
二十年ぶりの再会にカタリーナと抱擁する姿を見て、妻と同行の姪は
「あのふたりはどういう関係だったのだろう」といぶかった。
娘はちゃっかりカタリーナをスイスの母さんと呼び、
独り甘えてお邪魔虫滞在をしばしば。
僕は妻を伴って、2008年にザルツブルクを訪ねる。
一ヶ月滞在しても飽きない街である。
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