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道草ばかりの人生 長山 伸作 |
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◆ 夢のチロル 1968年
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カメラマンとしてシュルンスで仕事をしていた頃、地元でワールドカップが開催された。村役場の依頼で前夜祭を取材していたが、地元新聞には、「チロリアンダンサーにカメラの撮り方を指導する日本カメラマン」として紹介されていた。
山岳会活動で山岳写真を撮っているうちに、自分には「才能がある」と信じ込み始めた。会社の写真コンテストに応募して表彰されると、更に自信が湧いてきた。「俺には芸術の才能がある」。
そんなある日のこと。寮の娯楽室で、チロルやスイスのアルプス写真集を見ていたら、スキー同好会のI君が覗き込んで、「行きたいなあ〜」。若い二人の決断は早く「一緒に行こう」ということになった。 |
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分担作業で資料をあさり、綿密に計画を立てたが、どう考えても費用がかさむ。当時の給料は2万円程度。最も安い渡欧費用はシベリア経由で片道15万円。滞在費用を考えると最低50万円は必要になる。不可能を可能にするには、片道切符で現地就労し、帰りのキップは現地調達することで決まった。準備金は片道切符と半年滞在費を含めて25万円。当時貯蓄高は、質屋通いの僕は計算するまでもなく、ゼロ。涙ぐましい努力の日々が始まった。
会社での率先残業や徹夜作業で、残業手当が基本給を上回る状態が続いた。しかし、ヨーロッパで職につくためには、特技が必要であると考え直し、カメラマンとしての技術を身に着けるために、写真館の門を叩いた。ブンヤ写真館。ここのオヤジとは、山岳写真の出来栄えを師事してもらっている間柄で、快諾を得た。これが東芝を去るきっかけとなった。
気になる人が一人。スキーによく誘って滑った総務課のO嬢。一年後輩だが魅力的な女性だった。思い出に、横浜元町のクリフサイトへ誘った。オーケストラの演奏に合わせて優雅に踊る客を前に、豪華なディナーを食べながら「ヨーロッパに行っても、手紙は忘れないから」と継続を願ったのだが、後に「待てません」の手紙を受け取った。ショックは大きかった。 |
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小さな写真館だったが、早朝の暗室作業に始まり、店番から、スタジオのアシスタントまで、やることは多く迅速を求められた。客の立場だったときは、やさしいオヤジだったが、使用人となると扱いは厳しかった。婚礼写真の暗室作業ともなると、OKが出るまでに、何度となく怒鳴られた。「コントラストがない」「黒が潰れている」「白がかぶっている」「眠い」「いつになったら、まともに焼ける!」。技の修得とは、こんな繰り返しである。学校の卒業アルバムも受けていたので、ときどきは出張撮影が任されるようになった。住み込みに近い職場環境で、飯も朝昼晩、家族と共に食べた。夫婦喧嘩も度々で、仲裁役も買って出た。
一年半程度の修行が続き、いよいよ渡航の時期が近づいてきた。
プランは横浜港から以下の通り。
横浜→ナホトカ(ロシア)船便
ナホトカ→ハバロフスク シベリア横断鉄道
ハバロフスク→モスクワ 航空便
モスクワ→ウイーン ヨーロッパ特急
一週間約15万円の全費用。
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当時としては、まだまだ一大決心を強いられた海外渡航だった。1967年、24才の夏。横浜を発った船は台風の影響で荒れる海にもまれ、船酔いで食事も喉を通らなかったが、日本海を横切って無事ナホトカ港へ。検閲で平凡パンチを没収されたが、そこからは、五木寛之の「青年は荒野をめざす」でお馴染みの、シベリア横断鉄道に乗って、白人女学生の車掌と話すこともできた。寝台車で一昼夜、窓外のモノクロ風景、ツンドラ地帯を走り、ハバロフスクへ。駅付近のすさんだたたずまいの中で子供らが動き回っていた。彼らは笑顔を振りまいてガムをせがんでいた。空港ではターボプロップのプロペラ機が待っていた。機内はそのプロペラ音と振動で、ひどく居心地が悪かったが、無事にモスクワの空港に降り立つ。思い起こしても印象の少ない旅で、どこかに監視の目が光っているような、目に見えない束縛を感じつつ、赤の広場を散策した。
いよいよヨーロピアンエキスプレスで、待望のウイーンへ。ポーランド、チェコスロバキアを通って、自由の国オーストリアの首都へ一週間かけて到着した。音楽の都は、美しき蒼きドナウに象徴される中世の景観で溢れている。僕たち二人の本当の出発点が、ここウイーンであり、モーツアルト生誕の地、ザルツブルクと、憧れのチロルに夢を馳せた。 |
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