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道草ばかりの人生 長山 伸作 |
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◆ ザルツブルク−2 Salzburg 1969年
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休みをとってチロル行脚
チロルで暮らすためにアイデアを絞り、ひとつの企画書を作り上げた。チロルの観光拠点で、夏は避暑客、冬はスキー客の記念スナップ写真を撮る珍しい日本人カメラマンを雇用するメリットを書き上げ、雇用条件は健康保険と最低賃金をベースに、売れた写真の4割成果報酬とした。観光客の記念になるカップル写真や家族写真、おもしろいスナップなどを手当たり次第に撮影し、その場で名刺を渡す。それを暗室マンが翌日昼までにサムネール判でプリントして店の前に貼り出す。訪れた客が購入すれば、それを絵ハガキサイズでプリントして翌日仕上げで渡す。旅立つ人には住所先に送る。当時のモノクロ一枚500円相当は極めて高価だが、カメラを自由に持ち歩く時代ではなかったので、勝算は充分にあった。
企画部長に一週間の休みを申し入れ、ミッキーのいる中国料理店に寄った。厨房で話し込んでいたらベティが臭いをかぎつけて覗き込む。久しぶりに二人でザルツァッハの畔を歩きカフェテラスで話した。私がチロルで仕事を探していることを知って、ダメだとごねる。大学生なのに、子供のようにヤンチャな娘である。常々悩み事を聞いて相談相手をしているお兄さん役のようなものだったが、彼女にとってはそれが寂しいようだ。翌日の休みにメンヒスベルクへ出かけることを誓って別れた。
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音楽祭の終わったザルツブルクに落ち着きがもどり、ザルツブルク城に続くメンヒスベルクの丘の道も、静かな雰囲気に包まれている。ベティは物思いにふけっているようで、黙り込みながら歩いている。かれこれ半時間ほど歩いたので、ベンチで休むことにした。彼女が突然話し始めた。「パパ、ママと妹が、今日からウイーンへ旅に出る。おもしろくないので私は断った。今日からひとりぼっち」。戸惑いはあったが、彼女のつくる家庭の夕食をご馳走になる約束をした。それからは、妹以上の感情が自分の中に芽生えることを押さえられなくなった。
チロルへの仕事探しの旅が始まる。ザルツブルク駅にベティとミッキーが見送りに来てくれた。彼にベティのことを頼んで、列車に乗り込んだ。まずはチロルの州都インスブルックへ。この近辺のチロルの谷に広がる町々を訪ねて、写真屋、写真館を手当たり次第に当たっていったが、いい返事はもらえない。チロルの観光地を西へ西へ向かい、オーストリアスキー発祥の地、サンアントンからレヒへ。ここでも結果が得られず、このアールベルクの峠を西へ下ればスイスの国境は近い。さすがに元気がなくなってきた。残るはチロルの西の玄関、ブルーデンツから南へ回り込むモンターフォンの谷しかない。電車に乗り換え、谷の中心地、シュルンスに着いた。人口5千人の小さな観光の村である。 |
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ボスは柔道マイスター
シーズンオフの街は静かである。駅前を協会に向かって歩いたら、左手に一軒の写真屋があった。飛び込んだらボスは不在とのこと。協会の前に立ち、グルリと回りを見渡す。左手の古い町並みに銀行があり、ブティックとみやげ物屋に続いて写真屋があった。普通の写真屋で隣りに小さなスタジオがある。店の中に入ったら、30過ぎの、いかつい短気そうな男が、その顔には不釣り合いな笑顔で「グルースゴット」と声をかけてきた。この店のボスである。続いて、「あなたは日本人かね?」と訊ねてきた。今までに、始めから日本人を言い当てた人は少ない。中国人、朝鮮人のほうがメジャーであり、日本の影は薄い。僕は喜んで、「ヤー、イッヒビンエヒテヤパーナー」。彼は快く僕の話を聞いてくれた。そしてその場で、僕の計画を即決し、契約してくれた。僕の計画書そのままで。
契約してから彼が言った。「私は柔道家です。この州のマイスターです」。当時としては、柔道がヨーロッパにこれほど普及していることを知らなかった。幸運にもスイス国境を前にして、日本贔屓のボスに巡り会えた。
「アパートも用意しておくから、準備もあるので11月になったら来て下さい」。今年の冬は楽しくなる。意気揚々とザルツブルクに帰った。ザルツブルク駅から僕のアパートまで、徒歩約30分。これぐらいの距離は、こちらの人は常に歩く。 |
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1時間でも、歩くことを選択する人は多い。交通機関を使うことは少ない。初めて借りたアパートからザルツブルク大学まで通った頃は、いつもザルツァッハ川沿いを片道一時間、往復2時間を歩き通した。節約も大切だったが、苦にならない散策路の楽しみがあった。往来する人が声をかけてくる。ベンチに腰掛ける人に僕から話しかける。そんな大らかな人情味が、この街にはあった。チロルからの帰り道は、駅からもどる途中にフリビーの家に寄った。彼は不在だったが、お母さんがチロルの就職を喜んでくれた。ペパーミントティーをご馳走になり、家路についた。さすがに疲れたので、ベッドに伏せたらそのまま綿のように寝入ってしまった。
翌朝、タールハマーに出勤。いつも通りに働き、昼はフリビーたち同僚と昼食。僕は好物のフランクフルターとセンメルのパンをかじる。サウアークラウトという酢漬けのキャベツも、いつの間にか好きになった。10月末で退職することの了解を部長からとり、エリカ姉さんにウインク。退社後に、いつものワインケラーに仲間が集まり祝杯になった。フリビーもエリカも、僕のチロル行きを喜んでくれた。そこへミッキーがベティを伴って来た。ベティに抱きついたら、何か変。ぎこちない彼女の態度。わずか一週間で事態は急変していた。去る人より、いつもそばで守ってくれる人を選んだようだ。武者小路実篤の友情を思い出して、自分の我が侭を振り返らず、運命の悪戯をなじった。それほどに、ベティに傾斜している自分を理解することが難しかったが。 |
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ザルツブルクを発つ前に
エリカはさすがにお姉さん。年上の心づかいが身にしみた。よくよく一緒に飲み歩いてくれた。過去の日本ではお目にかかれなかったタイプの女性だ。心配してくれる同僚フリビーからディスコの誘い。「シンが気にしていた女性も一緒だよ」。とりわけ僕だけが気にしていた女性ではなく、同じ職場の噂になっていた二階フロアの社員である。その女性はメリッタ。以前、フリビーと二階のディスプレー商品を引き取りに行ったときに、チラリと目に入った。思わず「可愛い子だね」と小さな声でフリビーに言ってしまった。近づきがたい雰囲気があり、言葉を掛けそびれた。その子がディスコに来る。
フリビーの家に集まり、そのままおとなしくディスコへ直行。確かにメリッタが、同じ職場の仲間と来ていた。あいさつを交わしたが、一緒に踊るタイミングがとれなかった。若者のダンスはゴーゴースタイルが主流で、ソーシャルダンスを踊る人はいない。スローなブルースはチークになる。夢に見たウインナーワルツなど、お目にかかったことがない。貴族階級の社交場とは場所が違う。僕は、いつもの仲間にジルバを教える。シックスステップの習得が難しいらしいが、速いテンポでクルクル回ることが楽しいらしく、パートナーには事欠かない。メリッタの気を誘おうと近くで踊ったが、興味がない様子。結局、話すチャンスもなく、夜が更けて解散となった。翌日から、涙ぐましい努力が始まった。シュターツ橋を渡って帰るメリッタを見かけたことがある。
タールハマーを辞める前に、ザルツブルクを発つ前に、メリッタとは友達になりたかった。中国料理店での夜のアルバイトは、ベティと顔を合わせることが気まずく、自然と遠のいていった。そんな自分の行動は、会社を終えると決まってシュターツ橋の畔に直行した。毎晩一時間ぐらい立ちん棒が続いた。
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今風に言えばストーカー行為に似ているが、とにかく、きっかけがほしかった。10日ほど経ってチャンスの到来。メリッタが橋を渡って来た。「ゼアブス、メリッタ」の掛け声に、笑顔が返ってきた。カフェテラスに誘ったら、快く肯いてくれた。住所も電話番号も教えてくれた。彼女のお父さんは弁護士で、旧市街に事務所があり、彼のベンツを借りて遠出するときに紹介してくれた。柔和な紳士だったが、奥さんとは離婚していて、メリッタも新市街で独り住まい。
僕は心おきなくチロルへ旅立つことができた。
右の写真は、シュルンスで冬の仕事を終え、春の休暇でザルツブルクへ戻ったときのものである。日曜の朝早くから待ち合わせ、礼拝をすませてからいつものカフェテラスで山盛りのスキー談義に花咲かせ、メンヒスベルクの丘のレストランで昼食を食べて、更にザルツブルク城まで歩き、まだまだ別れたくなかったので、彼女のアパートまで押しかけて話し込んだものである。聞き上手の彼女は、どちらかといえば静かな雰囲気に包まれた上品なブロンズレディ。一見冷たい感じを抱かせるが、敬虔なカソリック信者ゆえだろう。
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