道草ばかりの人生  長山 伸作
 プロローグ
 生 誕 期
 思 春 期
 東芝に就職
 東芝山岳会
 夢のチロル
 ザルツブルグ−1
 ザルツブルグ−2
 チロル・シュルンス−1
 チロル・シュルンス−2
 男と女 出会いと別れと
 創 業 期
 結婚と家族
 浮き 沈み
 最愛の弟に
 中小企業考
 事業継承考
 スローライフ

写真/北穂高岳東稜
東芝山岳会小向支部の春山合宿は、ゴールデンウイークの涸沢。珍しく好天が続き、待望の東稜は朝の冷気でクラストした雪面にアイゼンの爪が気持ちよく突き刺さり、キュッ、キュッと鳴く。



 東芝山岳会 1963

休みともなると僚友を誘って山へ入ることが多くなった。丹沢通いから八ヶ岳、秩父山塊に行動範囲が広がり、鳳凰三山から南アルプスを見て、そのスケールの大きさに圧倒され、H君と戸台から仙丈岳・北岳縦走など山活動がエスカレートしていった。こうなってくると冬山やロッククライミングに挑戦してみたくなる。とうとう山岳部の門を叩いた。これが私の人生を大きく変えることになった。
(写真/奥穂高山頂)
昼休みは多摩川の土手を走って身体を鍛えた。初めての山岳部活動は、中央アルプス縦走の夏山合宿だったが、甘く見すぎて初日でダウン。真夏で30キロのキスリングを背負い、萱ノ内ルートの標高差2千メートルは高山病にも悩まされて、ゲーゲー吐きながら木曽駒へ。翌朝隊長から下山命令が下った。

山岳部に迷惑をかけないよう、単独のトレーニングに専心し、白馬・鹿島槍縦走(右上/鹿島槍頂上から)、表銀座・奥穂高縦走を立て続けに走破し、自信を取り戻して再度山岳部活動に合流した。冬の谷川岳ラッセル訓練、富士山7合目滑落訓練を経て、正月合宿・北沢峠ベースキャンプに参加。



冬の仙丈岳、甲斐駒ヶ岳、アサヨ峰をアタックした。ベースとなった北沢峠に持ち上げた荷物も凄かった。お屠蘇用にしては多すぎた日本酒。質素なお雑煮にもの足らず、天ぷらのご馳走まで準備した。当然、この時の食料担当は私だった。

山岳部に在籍していると、会社主催のキャンプをヘルプすることもある。妙高高原・笹ヶ峰キャンプのときは、私もグループリーダーとして参加した。男性と女性の参加比率は1:4。私のグループは、私も含めて確か3人対9人だった。だからモテないはずが無く、食事時もテントの中でも、いろんな食べ物が補給される。山旅が終わっても、この現象が続き、休日出勤に昼食の差し入れがあったときには、さすがにビックリ。どうして臨出がバレたのか?。


実家においてあったアルバムが、台風で全滅したことは痛かったが、下の写真も懐かしい残りの一枚である。冬の南アルプス北岳稜線から撮った富士山。正月合宿で、北岳から塩見岳縦走をめざしたときのものである。春山偵察山行、夏山トレ、晩秋荷揚げ山行を経て正月に決行したが、2m近い豪雪に阻まれて遅々と進まず、結局は塩見岳をあきらめて、北岳、間ノ岳から農鳥岳にルートを変え奈良田に下りた。このときの稜線では寒暖計の水銀柱が上がらず、零下20度以下だった。目出帽から露出していた睫毛に氷が貼り付き、頬の上は黒ずんで凍傷になっていた。

休日のほとんどを山で暮らす日々が続いた。写真の趣味も加わったので、給料は月半ばでいつもショート気味。矢向駅前の質屋通いが始まった。カメラの一台は必ず半ばで質種となった。しかし、命の次に大切なシロモノ。質流れさせることはなかったが、月末近くになると空腹を我慢する夜もあった。



上の写真は八ヶ岳・阿弥陀岳山頂。行者小屋にテントを張って、阿弥陀岳をアタックしたときのもの。小向支部リーダー会の推薦でリーダーメンバーの一員となり、初めての山行だった。元気な若手の仲間として、育成に努力したが、熱気盛んなU君たちは、当山岳会では禁止されていたロッククライミングの道へ進み、会から去っていった。彼は最も信頼できるザイル仲間だった。体力も抜群で、戸台から鋸岳縦走、黒戸尾根下りを激走した仲間でもある。

東芝、退職前に北海道ツアーを計画したが、男子隊員はことごとく休暇取得難で離脱し、残りの女性隊員3名とテント担いで一週間徘徊。大雪山、利尻富士を周遊して山岳会活動にピリオドを打った。


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